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Minano HIRANO

小ささから/小ささへ ー フェミニズムと音楽の現場より

GAは「理論と実践の往還」の場である。わたしも例にもれず、研究とともに実践にも取り組んでいて、清水研で音楽とフェミニズムの実践に関する研究をしながら、アートマネージャーとして、音楽やパフォーミングアーツの現場に立っている。


昨年12月、池袋にある自由学園明日館で、「知られざる未開の道はなを永遠に黙して永く永く無限に続く」という小さなコンサートを開催し、プロデュース・制作を担当した。明治・大正時代の日本のフェミニズムをテーマとして、アナーキスト/フェミニストの伊藤野枝の人生を描いた薩摩琵琶のための新曲とともに、野枝と同時代を生きた日本の女性作曲家の作品を演奏するというコンセプトだった。



リハーサルの時、釣り銭を数えながら、幸田延のヴァイオリンソナタを背中で聞いたときのことを、いまもたまに思い出す。幸田延は、日本人として初めて留学して西洋音楽を学んで、日本の西洋音楽を大きく切り拓いたパイオニアだが、帰国後は女性であるという理由でスキャンダルをでっち上げられて、理不尽に大学を辞職させられた。しかし彼女が西欧でどんなに誠実に勉強してきたのかは、彼女が育てた数多くの音楽家の功績を見るまでもなく、このソナタの楽譜を見るだけで十分にわかることだった。延は、ソナタ形式による本格的な器楽作品を作った最初の日本人だと言われている。


Vn:吉田薫子、Pf:前田朱音


延とその作品についての知識は頭に入っていたが、それでも延の書いた音符が実際に音になって響いたのを聴いた時、それが自分の身体に共鳴して、それらすべてを飛び越えるような感覚になったことを覚えている。目を逸らすことも耳を塞ぐことも許さない現前性がそこにあって、過去も現在も未来もそこにあった。この感覚は、紙の上で知ったことだけではわからなかったものだったと思う。延のことがすべてわかるとまでは決して言えないが、どんなに昔の作品も今ここにある現象として鮮烈に現れることができる音楽というメディアにしかできないフェミニズムが、あるのではないかと思った。


トーク:渡辺愛(左)、飯田祐子(右)


理論を扱うときも、実践を扱うときも、いつもなるべく小さな実感から始めることを忘れないでいたいと思っている。フェミニズムを考えるときには実家のリビングを、新自由主義を考えるときにはかつてバイトしていた居酒屋を、思い出すことから始めたい。音楽実践を分析するときには、それに共鳴する自分の身体から始めたい。清水研のゼミでは毎回事前に文献を読み、そのレビューを提出することになっているが、それらは実際の事例や作品と絡めて書くことが求められている。文献や資料に向き合って、理論や分析を大きな枠組みとして学ぶことが多いリサーチ領域だが、世界はそんなにも大きなものから小さなものへと、上から下へと、割り切れるものばかりでできているわけではないのだった。


わたしはきっとこれから、芸術の現場に立つことを人生の仕事としていく。自分たちがこれから送り出す作品やプロジェクトが世界を変えることはないのかもしれないが、「世界を変える」みたいな大きなことをするには、小さな実感から始めなければならないことを、わたしは知っている。同時に、「世界を変える」みたいな大きな視座にばかり意味や価値があるわけではないことを、わたしは知っている。ここで学んでいるのは、大きなものにはいかにして立ち向かえばいいのか、そのときいかにして大きなものを利用すればいいのか、そのやり方なのだと思う。

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