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Jiaming YI

ショッピングモールでの魯迅の証明写真——野草のように刈られた私たち

こんにちは、清水研究室の研究生、易家名と申します。今年5月初めに横浜トリエンナーレを見に行きました。特に印象的だったのは、クイーンズスクエアに展示されていた森村泰昌と北島敬三による4枚の巨大な肖像写真《野草の肖像》です。そこで感じたことについて、いくつか皆さんと共有したいと思います。

 

クイーンズスクエアに足を踏み入れたとき、この作品にどのくらいの人々が注意を向けたでしょうか。《野草の肖像》は、森村泰昌と北島敬三によるコラボレーションの一つであり、第8回横浜トリエンナーレのテーマ「野草:いま、ここで生きてる」と響きあうものです。作品の中心には、森村泰昌が中国服を着て扮した魯迅の半身像があり、彼は真剣に前を見つめています。同じく大きなサイズで、類似の肖像写真が三つ、「普通の人」を代表するかのように写し出されています。


この作品は明らかに、北島敬三の証明写真スタイルの写真言語を引き継いでいます。画面は清潔でシンプルであり、静かに前を見つめる人物だけが写しだされています。森村の通常の作品は美術館で展示されることが多いのですが、今回はクイーンズスクエアという消費主義の中心地に展示されているのも意外です。なぜ森村はこのように魯迅に扮した巨大な証明写真と三つの普通の人々の肖像写真を並列して、クイーンズスクエアという巨大な商業施設の中に展示することを選んだのでしょうか。


(著者撮影)


華人として、この作品の原型が尊敬される魯迅であることは一目で分かりました。しかし、ほとんどの日本人にとっては、この魯迅を模した肖像写真と他の三つの「普通の人」との明確な差異に気づくのは難しいかもしれません。中華風の服装や象徴的な髭以外に、この写真は魯迅に関する情報を日本人に想起させるのは難しそうだからです。


そして、「魯迅は当たり前の日常を生きる匿名の人々の一人として、ここに登場します」というこの作品の紹介文も、意図的に魯迅の有名性、評論家、作家といった特性を消し去り、現代に生きる一般人として写し出したことを表しているようです。森村は魯迅を神聖な場所から引きずりおろし、一般の人々の位置に戻したのです。これは魯迅を破壊するためではなく、むしろ私たち個々の存在と魯迅の共通点を強調するためではないでしょうか。また、私はその場に十数分とどまって様子を見ていたのですが、残念なことに、魯迅に関するこの作品を見上げたのは、ほんの数人でした。魯迅をめぐる一連の作品はこの商業施設の一部として見なされていたかのようでした。


魯迅は『野草』の題辞でこう述べています。「しかし私は、心おおらかであり、心たのしい。私は大いに笑うだろう、私は歌を歌うだろう。私は自ら私の野草を愛するが、しかし野草でもって飾りとなすこの地面を憎む」。森村が商業施設にこれほど巨大で、野草を象徴する普通の人々の証明写真を掲示した、その営み自体、個々の存在を肯定するものといえるのではないでしょうか。


実際、私は森村が画面をこのように大きくした理由が二つあると考えています。一つは、クイーンズ・スクエアという奇観的なショッピングモールの建築に合わせるためです。過去、人々は宮殿や教会などを極めて巨大に建てましたが、それは王様や神々の力を強調するためでした。しかし現代では、ますます多くの商業施設が巨大な建築物となっています。消費主義は王様や神々のようにこの世を支配しています。そのため、森村はもともと小さかった証明写真を大きくする必要がありました。さもなければ、私たちはその威容を誇る建物の中でそれを見ることができないでしょう。


もう一つの理由は、これが森村の抵抗ではないかということです。消費主義がこのように巨大な影響力を持つならば、個人を象徴する証明写真も同じくらい巨大であってもよいのではないでしょうか。巨大な個人の証明写真は、個人の存在を率直に肯定し、視覚的にショッピングモールの統一的な消費主義の文脈を破壊しています。


(著者撮影)


森村泰昌のこの作品は、現代社会が個々の特性を抹消しようとする試みに対する皮肉ではないかと私は考えています。証明写真は私たちの感情や個性を消し去る、最も没個性化されたものです。それが私たちを代表=表象するものとして使われていることが非常に皮肉に思えるのです。横浜トリエンナーレのキュレーターが指摘するように、「生活は野草である」ならば、証明写真は機械が千篇一律に印刷した野草のグッズに過ぎません。しかし、それこそが、現代社会における私たちの特性であり、私たちが規範化され、単純化された支配対象であること、ただ消費主義の支払者であるということを意味しているのではないでしょうか。


森村は、私たち個々の存在が、社会の規範に従う個人でも、消費主義の支払者としての個人でもなく、あたかも「野草」のように存在する個であることを強調したいと考えているのではないでしょうか。しかし、今日の社会では、規範化され、統治されることが「野草」の運命のようでもあります。私たちはすでに、マイナンバーカード、運転免許証、在留カードなどで、呆然とした個性のない証明写真を使うことにすっかり慣れきっています。支配階級が規制と規則を重視し、個人の行動が機械に近づき、自主的な考えを捨て去るようになると、結果として残るのは、盲目的な模倣にすぎません。個人は他者や社会と同期し、共通性が主流となり、差異は異端へと転化されます。


(著者撮影)


このエッセイを書いた後、TOEICの試験を受けました。その際、監視員全員が同じ制服を着用していることに気づきました。監督員は試験受験者の必要に応じて定められた対応をすることが多いのに、なぜ全員が統一された制服を着用する必要があるのでしょうか。面接に行くときにも、仕事に行くときにも、制服やスーツを着ることが重要視されます。制服さえもが一種の代名詞になり、ブルーカラーは労働者、ホワイトカラーは中産階級を意味します。個々の個性や存在が制服によって消されることになるのでしょうか。これは社会的に不合理な規範に対する過度の従順ではないでしょうか。それともこれは服従のテストなのでしょうか。


皆が何の不満もなさそうに見えます。私たちは魯迅が言う「地面」の装飾になってしまったかのようですが、魯迅が嘆いたのとは異なり、今は自発的にそうなってしまっているように思えます。肖像写真がどれだけ大きく写し出されても、一度も見上げることなく、消費主義の流れに従順に同化して目を留めなくなってしまったように。


この展覧会を見ることで、多くの気づきを得ました。また、この機会を通じて、消費主義時代における個人の位置づけについて考えることもできました。森村泰昌の最新作は、自分にとっても今後の研究の糧となりそうです。

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