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オルタナティブな言語を思い描く──活動報告+エッセイ

Jini

こんにちは。清水研究室研究生2年目のJiniです。今回は、今年度を通して最も印象に残った活動を振り返り、その中で考えたことや感じたことを綴っていきたいと思います。 

 

「Co-Learning Session Vol.1: Fragment and Whole - Orie Endo Talk Event + Workshop」2024年5月11日@東京藝術大学国際交流棟3Fコミュニティ・サロン 

 

遠藤織枝先生所有の女書資料(Photo: (O)Kamemochi) 
遠藤織枝先生所有の女書資料(Photo: (O)Kamemochi) 

私もメンバーの一員として活動している、国際的で学際的なアート・コレクティブ(O)Kamemochi(読み:おかめもち🐢)は、2024年5月に「Co-Learning Session Vol.1: Fragment and Whole - Orie Endo Talk Event + Workshop」というイベントを主催し、清水研究室に共催していただきました。 

 

(O)Kamemochiは、周縁化された価値や物語を明らかにし、従来の芸術の文脈を脱植民地化し、再構築することをコンセプトに活動しています。メンバーの役割は固定されておらず、私は本イベントにおいて、企画というクレジットで携わりました。 

 

私は前回のレポートで台北ASAPについて報告をしましたが、その際に「女書」についても触れました。「女書」とは、中国湖南省の農村の女性たちが自ら生み出した文字で、封建社会の下、漢字を学習することが許されていなかった女性たちが、女性間でのみ流通する文字体系を確立したものです。 


台北から帰国した後、私は女書店(台北にあるフェミニスト書店)で入手した女書に関する本を(O)Kamemochiのメンバーと共有しながら、女書についてリサーチを重ねました。そのプロセスで、女書のようなオルタナティブな言語の実践が、疎外されたコミュニティにとって抑圧に抵抗するための武器となり、同時に思いやりや共同体としてのケアを回復してきたことを知りました。 


私たちは現在のケアのあり方やコミュニケーション・システムを再考するために、女書についてさらに多くの人と共に学びたいと考えるようになりました。そのため、“共同学習”という有機的な空間が最適だと考え、本コラーニングイベントと、実践的なフェーズとしての展覧会(後述)という二段階プロジェクトを構想しました。 


イベントの様子(Photo: (O)Kamemochi) 
イベントの様子(Photo: (O)Kamemochi) 

本イベントの第一部にあたるトークパートでは、日本の女書研究の第一人者である遠藤織枝先生にご登壇いただきました。遠藤先生は、30年にわたり女書の故郷である湖南省江永県に通い、女書伝承者の方々と親密な関係を築きながら、女書研究に取り組んでこられました。 

 

先生のお話になった女書についての物語は、まさに女書文化の核について──なぜこの文字が生まれたのか?そして、何が書かれているのか?について深く学ぶことができました。会場全体の熱も伝わる、唯一無二の充実した時間となりました。

 

詳細な内容については、近日中に(O)Kamemochiのホームページにて詳しいレポートが掲載される予定ですので、ぜひご覧いただけると嬉しいです!(https://okamemochi.com/home) 

 

トークパートの後は、トークで得た学びを消化するためのワークショップ「Make Your Own Pocket Dictionary/ 自分のポケット辞書を作ろう」を行いました。 


参加者は、カラフルなカードに書かれた女書の文字を自由に解釈し、各々の辞書を作っていきます。交流を通じてイマジネーションを膨らませながら、文字の意味を拡張し、私的な感情や物語に寄り添った多様な作品が生み出されました。 

 

『is my heart worthy of contempt…?  | 私の心臓はそんなに汚いですか…?』2024年5月31日~6月2日@脱衣所 - (a) place to be naked 

 

展示風景(Photo: (O)Kamemochi)
展示風景(Photo: (O)Kamemochi)

イベントから1ヶ月後、私たちは展覧会「is my heart worthy of contempt…?  / 私の心臓はそんなに汚いですか…?」を開催しました。私は参加アーティストの一人として、絵画を1点出展しました。 

 

本展には、(O)Kamemochiのメンバーや外部のアーティストが参加し、独自の視点から言語や表現に対するフェミニズム的・クィア的なアプローチを示した作品と多く出会うことができました。絵を描く身振りとセクシュアリティをテーマに作品を制作している私にとって、とても刺激的な機会となりました。 

 

 الحركة اللاحركة (Non-movement Movement)a performance lecture by Dima Abou Zannad(Photo: (O)Kamemochi)
الحركة اللاحركة (Non-movement Movement)a performance lecture by Dima Abou Zannad(Photo: (O)Kamemochi)

展示作品の中から2つほどピックアップして紹介させていただきます。 

シャルジャを拠点に活動するDima Abou Zannadは、アラビア書道を通じて言語の解体・抽出をテーマにした作品を発表し、会期中にはオンラインでパフォーマンス・レクチャーも行いました。 


また、Cléo Verstrepen and Serhat Ortaのユニットは、トルコのセックスワーカーやクィア・コミュニティが使用する反言語「ルブンジャ」をテーマとした作品展示を行い、「ルブンジャ」を取り入れた最初の作品のひとつとされる映画『The Night, Melek and Our Gang』(監督:Atif Yilmaz)の上映会を実施しました。上映後にはSema Çakmakさんによるルブンジャ・カウンターカルチャーに関するレクチャーも行われました。 

 

本展覧会をきっかけに、2024年11月17日には「Co-Learning Session Vol.2: Lubunca - A Queer Anti-Language - with guest Lilith Bardakçı」が開催されました。「ルブンジャ」に興味のある方は、ぜひ(O)Kamemochiのホームページをご覧ください😉 

 

♢エッセイ - オルタナティブな言語を思い描く 

 

ここからは、女書に関する活動を経て、自身の研究や制作とより結びつけながら考察したことを書いていきたいと思います。 

 

私はエクリチュール・フェミニンという、書き物/書くことをセクシュアリティの観点から問い直すフレンチ・フェミニズムの思想実践を研究していますが、女書は多くの点でエクリチュール・フェミニンと共鳴していると感じました。そのような視点から見ると、女書の言語システムには、私にとって興味深い特徴がたくさんあります。 

 

例えば、女書は文字と意味が一義的に対応しておらず、ひとつの文字に複数の意味があることです。これは、文字数を減らし、教育を受けることができなかった女性たちでも容易に学習できるようにするための工夫でした。しかし、その為、女書は文脈を把握していないと解読することができません。特定の結交姉妹(1)との間や、自分だけが理解できるような文字の使い方をすることもあるようです。この点から、言語学者や社会学者からは、「特定の人物にのみ通じる記号には何の価値もない」とされ、女書の保存や研究が軽視されてきた歴史があります。 

 

さらに、女書には図案や装飾が配置されるという特徴があります。代表的な図案として「八角花」があり、これは占いの「八卦」に由来すると考えられています。(女書が伝わる地域では巫文化が盛んなのだそうです…!) 


また、女書文化には、結婚して三日目の姉妹に贈る「三朝書」という手作りのノートがあります。「三朝書」には、最初の数ページのみに女書が書かれ、その他のページには糸や布など、制作者にとって大切なものが挟まれています。ページの角には一枚ごとに模様の異なる赤色の切り絵が施されるなど、装飾性に富んでいます。 

 

私はこのように“あいまいさ”を内包する女書の言語システムに注目したいと思います。こうしたあいまいさは、いわゆる“アカデミック”な口調ではなく、公的な領域から「軽視されてきた」という側面からも“ガールズトーク”と呼ばれるような口調を想起させます。あるいは、ぷっくりしたシールやデコレーションされたフォントの交換手紙のような。 


たまにはルールと違ってもいい、それだけのことのようにも思えます。ルールに対してシリアスにならない、なる筋合いもない─そんなおおらかさ。システム無きシステム。それは、エクリチュール・フェミニンの「定義できない」という特徴とも重なりますし、「三朝書」のコラージュ的な構造は、まるでZINEのようでもあります。 

 

書く身振りにも目を向けてみましょう。 

 

一説によると、封建社会の下で、自分の机や筆を持つことが許されなかった女性たちは、膝の上で、木の棒の先に鍋の底にこびりついた炭をつけ女書を書いたといわれています。その為、女書には本来書道のような抑揚のある筆遣いはありません。女書とは泣きながら、細く小さく書かれるものなのだそうです。膝の上で書きやすいように、女書は縦書きになっています。

 

膝の上で文字を書くとき、木の棒の先は肉をひっかき続けます。涙は心や身体、世界との境界を溶解し、歌は喉や舌、空気を震わせます。こうしてみていくと、女書は身体との距離が非常に近く、親密性のある文字であることがわかります。 

 

感覚と常に交渉しながら書かれる線は、生きた線です。私は絵を描くときにそのように感じています。エクリチュール・フェミニンの作家であるエレーヌ・シクスーは、「描くように書く」と語っています。そして「生き生きしたものを書きたい」とも。その感覚が私にはよくわかる気がするのです。 

 

研究者・何紅一によれば、女書は単なる文字体系ではなく、装飾性に富んだ一種の図案文化としての体系も持っているといいます。例えば、「八角花」などの特有の図案は、線によって構成されていること、弧の筆致や点の用法が女書と共通しています。さらに、湖南省の苗族の女性たちは、絵柄や刺繍の下書きを描くことを「書く」と言うそうです。つまり、彼女たちは文字を「図」とみなしている、ということです。

 

何紅一は、女書や図案の筆致に抗争力を見出しており、女性たちは、厳しい封建社会に屈服せずに心の声を訴えるため、絵画や歌、切り絵などを女書に組み入れ、豊かな記号体系を作り出したのだと論じています(2)。  

 

オルタナティブな言語システムは、言葉の意味を複数性へと開きます。女書は、文字の領域にとどまらず、芸術の領域も含み込むことで、感覚的で複層的な情報を伝えています。 


主流社会を形作る二元論的で異性愛規範に基づく枠組みからこぼれ落ちるさまざまな想いや身体性を、オルタナティブな言語は取りこぼすことなく伝えるツールになり得ます。それはもしかすると、くじらの歌のように、伝えたいことを“そのままの形”で伝える表現方法のヒントになるかもしれません。

 

生き生きとした線によって書/描くことは、その条件のひとつであるように思えます。 

 

(1)血縁関係のない仲のいい少女たちが、2、3人から7、8人までのグループを作り、義理の姉妹の契りを結ぶこと。 

(2)『消えゆく文字 中国女文字の世界』遠藤織枝+黄雪貞 編著より「神秘的な図案と神秘的な文字─女書における図案文化「八角花」の解読」何紅一 

 

参考: 

『消えゆく文字 中国女文字の世界』遠藤織枝+黄雪貞 編著 

女書の世界(遠藤織枝先生による女書に関する情報サイト)http://nushu.world.coocan.jp/jp/aboutnushu.html 

(O)Kamemochi 

 

 

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