みなさん、こんにちは!今年度から清水研究室所属の研究生となりました、久保木千草と申します。今年1年間でいくつかの展覧会を訪れましたが、特に忘れられない体験となった、青森県立美術館で行われた鴻池朋子の個展「メディシン・インフラ(薬の道)」についてお話ししていこうと思います。
この《メディシン・インフラ(薬の道)》は、昨年より東北でスタートした長期プロジェクトです。福島、岩手、北海道、そして能登半島へと、鴻池に縁のある場所に作品を展示保管していており、今回はこの大規模リレー展のフィナーレとなっていました。
知られるように、鴻池は動物をモチーフとした様々な作品や、森の中での作品設置など「どうぶつ」そして「自然」と密接に関わる作品を制作するアーティストです。幼少期から自然に囲まれた環境で育ち、また学部時代には動物看護学を専攻し獣医療や生命科学の分野から動物と関わってきた私を、魅了してやまないアーティストの一人です。ご著書『根源的暴力』のなかで「東北を開く神話」展の後日談を読み、また本展が東日本大震災を機に変化してきた鴻池の作風を追うものでもあると知り、東北にゆかりのある身としても非常に興味を持っていました。
あらゆる身体の可能性に気づくこと
まず、会場入り口すぐに広がるアレコホールには、他美術館からの貸し出しを含むたくさんの車椅子が並んでおり、圧倒されました。鑑賞者は、この車椅子に自分が乗り、そのまま会場を回ることができるようになっています。この取り組みの背景には、アートにとって大切なのは作品というモノではなく、その周りに起こる時間や現象なのだという鴻池の考えがあります。
自分が意識を持って動かせる体は、基本的に自分のものしかありません。だからこそ他者の身体をイメージするには、トリガーが必要です。車椅子に乗るというたった一つの行為からでも、体のあり方への見方が変化するかもしれません。誰かのできないことだけでなく、できること、していることが見えてくる。そして私たちには、それぞれできる人ができることをし合って生きていくという、基本的な「生きる力」が備わっているように思います。

(筆者撮影)顔毛皮 狐:アレコホールを抜けた展示スペースにポツンと一つだけ、車椅子に乗った毛皮の人形が置いてありました。この頭上には天井に設置された回転型の毛皮の作品があり、それを見上げているようでもありました。
あそびの重要性
会場内のあちこちに展示されていた指人形は、実は全部で63体も展示されていたそう。この指人形は、本来美術館でタブーとされる「作品に触れる」行動を促す仕掛けであるとともに、自分と一体化しつつも自分ではない他者をそこに感じる「遊び」を本質的に感じ取ることのできる装置でもあります。
近年、「遊び」は、安全性が強く求められるようになってきています。家庭のみならず多くの公共の場所では、子供の怪我や事故への配慮が強く求められ、失敗や他者とのぶつかりさえも大人がコントロールすることが、理想となってきている側面があるように感じます。ですが、実はこの遊びこそ「怖がらないでさわってみる」の最初の一歩ではないでしょうか。思考停止に陥ってしまうような禁止ではなく、壊れない力加減で作品と触れるという直接的な関係を持つことで、本来見るだけでは生まれにくい「壊してしまうかも」という意識が生じるように思うからです。この展覧会全体を通して、壊さない力加減を鑑賞者と監視員共に探っていく姿勢を感じました。
また、外の環境から遮断され守られた美術館という空間で、「遊び」を体験できるこの指人形は、震災時のパブリックスペースとして、避難場所における、心の避難所のような役割を果たしていた「手芸」と似たところがあるように感じました。
今回の展示作品の一つである『物語るテーブルランナー』は市井の人々から忘れ難い個人的な体験を聞き、鴻池が下地を作った上で話者自身が手芸を行うという、2014年からはじまったプロジェクトです。今年の元旦に発生した能登半島地震の被災地である珠洲市には、『物語るテーブルランナー』で協働していた女性たちがいました。震災後、彼女たちによる「避難所まで持ち込んだ針や糸を使って何か制作したい」という声から新たなプロジェクトも展開されました。手で遊ぶことやアート、それらは資本主義社会での生産性には必ずしも直結しない、生きる上でとても重要な活力だということを、強く感じました。
どうぶつとにんげんの間や境目、その関係性
美術館の床にはいくつかの穴が掘られており、そこに動物の糞(を模ったもの)が置いてありました。アライグマやツキノワグマ、シカなど自然界で生きる彼らの糞は、人間でいう言葉のように、痕跡としてメッセージ性を持ちます。手や触感で確かめるという伝達方法は、速くも強くもないですが、しかし確かな実感があるものです。そしてそれは動物のコミュニケーション方法でもあります。動物の子どもが甘噛みをするのも、その力加減のギリギリのラインを体で確認することが重要であり、それが遊びの面白さとも繋がるのです。安全というフィルターがかかりすぎる今こそ、動物のように体で感じ遊ぶことが求められているのではないかと思いました。
(著者撮影)左:動物の糞模型(シカ) 美術館の床に穴を掘り、糞模型を設置してあった
右:戦争と詩のベッドカバー(毛皮)触って良い作品
言葉として世界を認識すること
言葉は、人間が使用するコミュニケーションツールであり、伝えたい、表現したい、心の内にとどめておけないものを外に出すツールのひとつだとしたら、芸術はどうでしょうか。
2003年に開催された「六感の森」というプロジェクトで、鴻池は自身の作品を言葉で説明した際「これは、私が作っているものと違う」と感じたそうです。芸術は、言葉が定義しえない範囲まで表現しうるのかもしれません。また今回、彼女は『T:The New York Times Style Magazine:Japan』のインタビューのなかで「あらゆることが言語という二次情報として入ってきて、自分の皮膚を晒して感じることができない。こうした時代に私ができるのは、『あとはあなたの身体しかないですよ』というギリギリのところまで背中を押してあげること」と語っています。
私はこのエッセイを書く上で、〈プロジェクトラボ 新しい先生は毎回生まれる〉にて展示されていた作品の一つである、鴻池と坂本里英子との往復書簡から多くのヒントを得ました。坂本は、2016年にセゾン現代美術館学芸員として、鴻池朋子展「根源的暴力」を企画した方です。
この書簡の対話の中でお二人は「つくること」への考えや今までの活動について振り返ります。特に印象深かったのが、坂本が鴻池の手紙のなかに描かれた絵に対するお返事としてイラストを描き、これに鴻池が感銘を受けていた部分です。このやりとりで鴻池は、大袈裟でなくヘレンが「water」と言うのを聞いたようだと喜びます。(書簡内で突如出てくるこの鴻池さんの言うヘレンは、おそらくヘレン・ケラーのことと思います。)また坂本は、絵を言葉で語ることが続く美術に対し「絵には絵で返してほしい」という鴻池に対し、絵を絵として捉えることができれば別の伝え方が生まれるのかもしれない、と述べていました。
私のエッセイも言葉でできたものなので「絵は絵で返せ」に反しているし、だからこそ坂本さんとの往復書簡という言葉から得たものを言葉で書いてきたつもりです。現代の私たちは、言葉を用いて思考することが多いと思います。しかし言葉ありきの認識は、ある側面において、私たちの見ている世界を歪ませているのかもしれません。まだ私は、言葉に依存しています。
今回の展覧会は、自分の薬になるものだと期待して訪れてみたら、蓋を開ければ罠の中のようでした。私はただ体で作品や土地と触れあうしかなかったのです。
今回私が訪れた際、はじめに遭遇した車椅子の展示にて、ほとんどの人が車椅子を観賞用の作品と思い込んで素通りし、鴻池の問いかけに応じることがなかった点は見逃してはいけないと思います。(私も一度座ってみたものの、動かすのに手間取り、時間に余裕もなかったことから結局歩いて鑑賞しました、という言い訳でもあります。)実際、現代アートの展覧会では、触ったり動かしたり音を出したりと、鑑賞者の能動性が問われる作品も少なくありません。ここで動く人と動かずに見るだけの人がいます。
鴻池はこうした「作品と鑑賞者との間の大きな距離」を、作品を触れられる範囲内においてみて、壊れない距離感を探っていく過程で、変えていこうと考えているように思いました。しかし私はむしろ、鑑賞者は自身の鑑賞者としての振る舞いを、美術館側にジャッジされているような感覚を持っており、そのジャッジに恐れているのでもあると考えています。(この「美術館側」には、自分以外の鑑賞者も含めています。)そもそも距離を縮めたがっていない時、思考を停止して美術館側に「正解」があるかのように思ってしまうときがあります。こういう時、展示だけでなく美術館側の空気感なども重要な要素になってくるのではないでしょうか。
「よく分からない。」これは芸術によく投げかけられる言葉ですが、鴻池は「分からない」というこの感覚こそが美術館が本来持つべき役割であるとも考えているようです。私は、分からないと動けなくなる気持ちが、とてもよくわかります。しかしそんな時こそ、言葉や常識やしきたりを一旦脇に置いておき、自分がまず動いてみる。そうしたシンプルな一歩が、自分の世界を変えてくれるのかもしれない。そんな風に感じました。
(著者撮影)左:竜巻パラソル 黒いポリエチレンテープをつけた傘が回転し、竜巻のように見える、右:戦争と詩のベッドカバー(熊の毛皮) 触って良い作品。固くゴワゴワしていた